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発達精神病理学という観点から見た子どもの発達障害 その1

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皆さんは、育児や仕事などを通して子どもたちと関わる中で、“あれ?この子だけ周りと様子が違うな…”、“育てにくいな(関わりにくい)”なんて感じる場面はありますか?

 

たとえば…

 

他の子は公園の遊具で遊んでいるのに、自分の子だけは滑り台にもブランコにも興味を示さず、道路に飛び出そうとしてしまう。

 

何かのイベントに参加しても、一人だけ周囲の状況などお構いなしに自分の行きたい方向に行き、やりたいことをやっている。そのため、他の参加者の邪魔をしているように見えるし、落ち着くよう引き止めるのも大変である。

 

気に入らないことがあると周囲の目を引くような大声でキーキーと奇声を発したり、暴れて

物や人を叩くなど、とても凶暴になる。

 

同じ場所を行ったり来たりし続ける、ぐるぐる回転をなかなかやめない、ぴょんぴょんジャンプをし続けるといった繰り返しの行動をとる。

 

食べ物の好き嫌いが激しく、味に限らず少しでも嫌いな色・形が混ざった料理は食べない。

 

夜になって、大人が絵本を読み、部屋を暗くしたり静かにするなど、どんなに寝かしつけを工夫してもとにかく寝てくれず、夜中であろうが元気に動きまわっている。

 

ときとして、子どものこうした行動は、周囲の環境や他の子ども達の輪から浮き上がって悪目立ちしてしまい、保護者は周りに気を遣いながら子どもに言うことを聞かせようと必死になってしまうのではないでしょうか。または、いつ交通事故に巻き込まれるのではないかとハラハラしながら子供を見守り追い回すことに疲れてしまう日もあるはずです。

 

あるいは、一所懸命に世話をしているつもりでも、“結局は養育者としての私がきちんと躾をできていないから…料理が下手だから…十分に構ってあげられていないから…子どもが問題行動をとるのではないか”などと自分を責めている親御さんもいるでしょう。

 

そして、そういった子どもの振る舞いを目の当たりにした人であれば誰もが一度は悩む疑問があります。

 

この子の振る舞いは、ただの「個性」なのか、それとも何か「別の理由」があるのか

 

「個性」で済むならばそれに越したことはないのですが、その「個性」によって子ども自身が周囲の環境に馴染めず孤立してしまったり、いずれ事故やトラブルになりかねないというリスクもあるようでは、実際に育児をしている保護者の心配は尽きないでしょう。

 

とはいえ、闇雲に心配ばかりしていても状況は良くなりません。これから、私たち大人は子ども達の成長をサポートしていく上で何に注意していくべきなのか。今回はその課題と深く関わる精神医学の近年の変化を見ながら説明していきます。

 

発達障害の見極め方はどう変わってきたか

 

たとえ専門家であっても、子供の問題行動や特徴をみて「個性」なのか「発達障害」なのかを正確に判断するのはそれほど容易ではありません。

 

特に、2013年にアメリカ精神医学会が作る精神疾患の診断マニュアルが最新版(DSM-5)へと改訂されるより以前は、精神疾患の診断は「カテゴリー診断」という手法が取られていました。カテゴリー診断は、病気の原因(病因)を追究せず、症状に着目して病気の分類をすることが最大の特徴でした

つまり、患者の現在の状況に注目して、その人に見られる症状に当てはまる病名を診断するのです。

この診断方法は、それ以前の精神医学からすれば非常に画期的であったため、世界中で受け入れられてきました。

なぜ画期的か。それは、この診断方法が登場するまでは、精神医学は人の「心」という解明しきれていないものを扱っているために、人の心に病気の原因(病因)を求めるという無理難題に応えなければならず、そのせいで未知の部分(原因不明)が残り、正確さを欠いていたからです。

 

カテゴリー診断が生まれる前は、精神医学は病気の原因を次の三種類に分けて考えていました。

 

1.外因性疾患 身体や脳に病的な変化が確認できる疾患

2.内因性疾患 病的な変化も確認できないが、同時に心理的要因だけとも考え難い疾患

3.心因性疾患 心理的な要因(心への負荷)が大きく影響しているらしい疾患

 

これだけ見てもわかる通り、かつての精神医学は病の原因についてよく分かっていなかったというのが現実でした。というのも、人の「心」の実態を説明できなかったからです。だからこそ、原因を考慮しなくても症状だけで診断できる方法の登場は、それまでの曖昧なものにはっきりと白黒つけるためにも有効で、世界中で広く受け入れられてきました。

 

症状(現在)だけでは判断しきれない子どもの発達障害

 

ところが、症状だけで判断するカテゴリー診断という手法は、子ども達の疾患を正確に見極めるのには不向きでした。

なぜか。それは大人と違い、子ども達はまさに文字通り「発達」の真っ最中であって、毎日成長し続けているからです。子どもの現在の振る舞いから発達障害の診断が下されたとしても、その診断が数年後も同じように当てはまるとは限りません。また、その逆に、現時点で診断が下されていないからといって、将来もそれが続くとも限らないのです。

 

そのため、子供(医療の場面では正式には「児童青年期」と呼ばれる)を対象とした診断においては、成人に対する時とは異なる次のような混乱が起きがちでした。

 

1.異なった病因にもとづくよく似た臨床像(症状)の区別がまったくできない。

2.ある疾患に関して、成人と同じ項目を用いて児童を診断したとき、その病態は成人と同じ診断名で呼んでよいか。

3.子どもは発達をする存在なので臨床像も変化していく。それに対してカテゴリー診断を行うと診断基準を満たしたり満たさなかったりする。

 

こうした課題を克服するために、近年発展したのが「発達精神病理学」という分野です。それによって、病因を外因性、内因性、心因性の三つに分類する考え方も改められました。

 

現在は、「素因と心因の掛け算」によって疾患が生じると考えられるようになったのです。

 

これは一体どういうことかと言いますと…

 

まず「素因」とは、簡単に言えば「人がそれぞれ持っている個人差」であり、「体質の違い」とも言い換えられます。

 

わかりやすい例としては、同じ量のお酒を飲んで平然としている人もいれば、ひどく酔っ払って具合が悪くなってしまう人も居るのと似ています。その人がもともとアルコールを分解する酵素をたくさん持っているのか、ほとんど持っていないのか、といった器質的な差があるから反応にも違いが現れるということです。

他にも、親族に糖尿病の人が居れば、自分も糖尿病になりやすい器質を持っている可能性が高くなることとも同じです。

つまり、遺伝的(先天的)な個人差を「素因」と呼んでいるのであって、この差によって個人の病気になりやすさには違いが出てきます。

 

一方、「心因」とは、その人がもともと持っているものではなく、生まれた後に体験する心理的な負荷が病気の引き金になるという意味です。たとえば、心に強いストレスがかかるような悲惨な体験をした後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患うといった状況がこれにあたります。

つまり、「素因」が先天的なものであったのに対し、「心因」は後天的なものと言い換えることができるでしょう。どのような環境下で生活し、どのような体験をするのかが問題なのです。

 

「素因と心因(環境)の掛け算」とは

 

たとえば、近しい親族に高血圧や糖尿病を患っている人がいる場合や、何らかの理由で生まれつき血糖値や血圧の上がりやすい人は、それら疾患を抱えやすい素因を持っていると言えますが、きちんと健康管理をしながら生活すれば病気を防ぐこともできます。一方で、たとえ血液検査や血圧測定などの健康診断で異常が出なかったとしても、「健康だから大丈夫」と暴飲暴食など不摂生を続けて居れば、生活習慣病に至るリスクは当然高まります。

 

つまり、先天的に素因がない人であったとしても、置かれた環境によっては病気になり得るし、逆に、素因がある人であっても、環境を良くすれば発病に至るリスクを減らせたり、あるいは発病してもその後の過ごし方で寛解を目指せるということになります。

 

発達障害は先天的なもの?

 

さて、これまで説明してきたことを踏まえて、子どもの発達障害について考えてみましょう。

 

発達障害も、素因と心因(環境)の掛け算によって生じます。

 

ところが、発達障害について書かれている本でも、少し古いものになると脳のどこに器質的な異常があるかといった「素因」については説明されているのですが、「心因(環境)」については書かれていない場合がよくあります。

 

発達障害が社会的に認知されるようになったのは最近のことで、それまでは「子どもの行動に問題があるのは、親の育て方が悪いからだ」などといった偏見が強くありました。今でもそういった誤解は残っていますし、それによって親(特に母親)はいわれのない非難を受けやすい立場にあります。

発達障害を抱える子どもたちとその親を適切なサポートが受けられる環境に導くためにも、そのような偏見を解くことは大切です。その意味では、発達障害の「素因」への認知を高めていくことはとても重要です。

 

しかしながら同時に、発達障害の「素因」への認知が高まるにつれて、「発達障害は先天的なものだ」「先天的なものだから変えることはできず、そのまま受け入れるべきた」といった考え方も広まりました。

 

こうした考え方は、「素因」についての理解が深まった証拠とも言えますし、社会の偏見が軌道修正されつつあるのだと受け取ることもできます。また、障害そのものをポジティヴに捉え直す効果もあるかもしれません。

しかし、一方で「個性としてそのまま受け入れる」「変えることはできない」という考え方は、発達障害を抱える本人や親をはじめとする周囲の人々の、生き方の幅を狭める負の側面も持ち合わせた考え方であると指摘しなければなりません。

 

一見すると「個性としてそのまま受け入れましょう」という言葉は、美徳としても良い響きを持ってはいるのですが、その反面で発達障害者を無力な存在に閉じ込めてしまう力もあるのです。

 

発達障害者自身やその養育者にとっての生きやすさをもっと積極的に求めるとすれば、社会に快適な環境を整えていくと同時に、症状の悪化を防ぐ「改善(介入)」や「素因」を持つ子どもに対して発症を未然に防ぐための「予防」といった方法も、選択肢の一つとして認知されていくべきです。

 

だからこそ、これからは発達障害の「素因」を発症にまで至らせる、あるいは症状の悪化をまねく「心因(環境)」について認知を高めていく必要があります。

 

「心因」とは、先にも述べた通り、生まれた後に置かれた環境や体験によってかかる「心」への負荷のことであり、つまり、「子どもは、後天的に心にどのようなストレスを受けて発達障害に至るのか」という視点とも言い換えられます。

 

このように述べると、一部の人々から拒絶やお叱りなど否定的な反応を受けることもあるのですが、それでも後天的な影響は今後確実に無視できない要素として考慮されていくでしょう。

 

さて、発達障害の後天的な要因については次回の記事で詳しく述べたいと思います。

 

とはいえ、後天的な要因を説明することや「予防」や「改善」といった選択肢の提案は、「個性としての発達障害」を全否定するためではありません。そのことは、DSM-5以降、発達障害が「自閉症スペクトラム」という捉え方に変わったように、発達障害は「白か黒か」「陰性か陽性か」「正常か異常か」という二択で判断するものではないことからも明らかです。

 

はっきりとした境界線を引かないからこそ、発達障害は誰にとってもより身近なものとして捉えやすくなり、正しく知っていくことで偏見も減り、お互いに助け合える社会を目指せるはずです。

 

その2へ続く

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