ある日の光景 〜子どもたちのパワフルな行動〜
先日、わが家でこんなことがありました。忙しい平日の朝に、玄関前で外出の準備をしていると、居間から子どもたちの楽しげな歌声が聴こえます。私の家には、3歳の息子と、2歳の娘がいるのですが、普段はしょっちゅう喧嘩をしています。なので、こんな風に仲良く歌をうたって過ごすなんて珍しい、と意外に思っていました。とはいえ、仲が良いほうがこちらとしてもありがたいので、ホッとしながら2人の様子をのぞいてみました。すると2人は、食卓テーブルの上にティッシュの箱をひとつずつ置いて、そろって歌いながらテンポよくティッシュを引っ張り出し、床に次々と捨てているのです。フローリングの床は山盛りのティッシュペーパーで、まるで雪が積もったかのように真っ白になっていました。
私は思わず、「こんなに散らかして」と声をあげてしまいました。しかし、ここで自分の怒りの感情にストップをかけ、それ以上は何も言わず、彼らを責めるのはやめました。
子どもと暮らしていると、似たようなことは毎日何度も起きます。特に、保護者が忙しく目を離している時に限って、こんな風に余計に手間のかかる面倒ごとが起きます。しかも、やらかした張本人であるはずの子どもたちには、全く悪びれる様子がありません。きっと、このコラムを読んでいる読者の中にも、そっくりな経験をした方たちがいるのではないでしょうか。
この時は、散らかったのはティッシュだけでしたから、片付けるのはそれほど難しくはありませんでした。しかし、他にも触ってほしくない物に手を伸ばされ、めちゃくちゃにされてしまった経験は一度や二度ではありません。それだけに限らず、子どもたちは時と場所を選ばずに大声ではしゃぎ、そこらじゅうを走りまわります。あるいは、喉に詰まらせたら大変な物を口に入れたり、鋭い刃のついた髭剃りに手を伸ばそうとして、こちらが危険だからと取り上げると、非難がましく大声で叫び、泣きわめきます。これが毎朝、毎晩、繰り返されるのです。
さて、これは幼児の例ですが、子どもが何か問題を起こした時に、私たち大人はどう対応するのが適切なのでしょうか。
子どもの前で大人が持つべきもの
まず、私たち大人が持っていなければならないのは、冷静さです。もちろん、感情のない機械のようになれ、というわけではありません。たとえば、先のティッシュを散らかされた時のことを例にあげるならば、散らかった部屋を見て「もう、こんなに散らかして」と怒りの感情が湧くことそのものを、無理に否定する必要はないのです。
しかしながら同時に、怒りをそのまま外に出して、誰かにぶつけてしまうのはよくありません。というのは、2歳や3歳といった幼児に限らず、たとえ小学生や中高生が相手でも、大人が怒りの感情をむき出しにして彼らにぶつかるのは、問題の解決にはつながらないからです。むしろ、怒っている姿を見せつけてしまうと、状況は余計にややこしくなり、問題解決は遠のくばかりなのです。
怒って怒鳴ったりする大人の姿は、子どもの目には恐ろしい光景となって焼きつくでしょう。しかし、それが「なぜ」なのかは、子どもには分からないものなのです。どうしてか理由は分からないけれど、「お父さん(お母さん、先生)は僕に怒っている、怖い」となり、萎縮した子どもは不安や恐怖を抱えたまま、大人の機嫌を取るために、その時だけは従順になったりします。「ごめんなさい」や「すみません」、「わかりました」、「もうしません」といった言葉は、一見すると子ども自身が、自分の起こしたトラブルについて理解したように聴こえます。つまり、彼らは自分なりに反省し、これからは行動を改めようと決意しているように見えるかもしれません。そしてそれは、大人の立場からすると、問題の収束に思えるでしょう。しかし本当は、怒っている大人を前に、とにかくその場をやり過ごすための態度でしかないのです。
子どもが、その場をやり過ごすための態度を取る。それはいずれ、「僕がやったんじゃない」と嘘をつくクセにもなる可能性があります。
嘘をつくことは悪いことである。これは広く共有された常識かもしれません。しかし、怒る大人を前に嘘をついたりするのは、子どもが悪いからなのでしょうか。それは違うと言えるでしょう。というのも、そもそもの発端は、子どもを怯えさせている大人の側にあるからです。
人が怒りを感じるのはどんな時か
そもそも、私たち人間は、どんな時に怒りを感じるのでしょうか。先の例をもう一度取り上げるならば、子どもがティッシュを散らかした光景を見た時です。ここで、怒りが湧く原因について、じっくり考えてみましょう。怒るのは、本来であれば綺麗であってほしい部屋が汚れてしまったことに対してでしょうか。あるいは、ただでさえ忙しいのに、散らかった部屋を片付ける手間がひとつ増えてしまったので、腹が立つのでしょうか。それとも、買ったばかりのティッシュを無駄にしてしまった、もったいない、資源が無駄になった、お金を無駄にした、また買い物に行って補充しなければならないのが面倒だ、という気持ちがあるのでしょうか。
このように、怒りとは、複雑な感情の動きをともなうものです。ですが、大きくまとめるならば、「予想していなかったことが起きて、しかもそれが自分の望みとは違い、受け入れられないものだった」時に起きる感情と言い換えられるでしょう。
繰り返しになりますが、この心の動き自体を無理に否定する必要はありません。私たち大人がどうにかしなければならないのは、怒りを外に向かってぶつけようとする、その行為をどう未然に防げるよう処理するか、という方なのです。
人が不満を感じるのはどんな時か
子どもが部屋を散らかした。宿題をやっていなかった。今日も忘れ物をした。言うことを聞いてくれない。学校の勉強についていけない。
人が怒りを誰かにぶつけたくなるのは、どんな時でしょうか。それは、私たちがその誰かに対して「こうであってほしい」という期待や望みを抱いているのに、思い通りに叶わない時です。つまり、私たちは、他者に対して不満を抱き、その不満を自分自身でうまく受け入れられない時に、怒りの感情を言葉や態度で示して、他者にぶつけてしまうのです。
実は、怒りも不満もとてもよく似ているところがあります。それは、怒りも不満も、それを抱えることが心身にストレスとなって精神を緊張させ、大脳辺縁系を活性化させるという点です。大脳辺縁系が活動を高めると、反対に前頭前野の活動は抑えられます。そのため、思考力や判断力は鈍くなり、冷静さを失いやすくなるのです。
何か問題が起きた時、それを解決するためには解決策を考えるだけの力が必要です。つまり思考する力のことです。したがって、冷静さを失うとは、問題解決の方法を考える力を失うに等しいと言えるでしょう。
大人の思い通りに育たない子どもたち
子どもに「こうであってほしい」、「こんな風に育ってほしい」という望みを持つこと自体は、誰でも多かれ少なかれあることでしょう。しかしながら、他者を自分の思い通りにはできないことも、私たちは知っています。子どもも他者ですから、どれほど完璧な育児やしつけ、教育をしたところで、保護者の期待通りの姿にはならないのも事実です。
当然ですが、親や先生の思い通りに育たない子どもは、子どもが悪いのではありません。保護者が子どもに「こうであってほしい」という理想像を押し付けることは、子どもに取っては緊張の種であり、親のイメージから外れることへの不安や恐怖につながります。不安や恐怖を抱きながら育った子どもは、成長するにつれて、不安定で低い自己イメージに振り回されるようになります。「自分はこんなこともできない人間なのだ」という悪い自己像が、影のようについて回るのです。その結果、何をしても、本来ならば達成感や喜びを感じて良いはずの場面でさえ、彼らは「できなかった」ことへ目を向けるようになってしまい、永遠に到達できない完璧な理想像に、自尊心を傷つけられるのです。「できない自分」とは、社会が求める標準的な人間像からはみ出し、こぼれ落ちる自分のことであり、それはそのまま社会への不適応、すなわち「生きづらさ」となって長期的に子どもを苦しめてしまうことになります。
完璧な理想像を子どもに押し付けるとは、何もひと昔前に流行ったような「ステージママ」や「教育ママ」といった極端な例に限った話ではありません。私たちは、気を抜くと自分でも知らないうちに、些細なことで子どもに理想像を押し付けてしまうのです。それは、ティッシュを散らかさない子どもであり、忘れ物や落し物をしない子どもであり、勉強についていける子どもであり、友達とうまくやっていける子どものことです。
大人は、すでに経験を積んで、ある程度は生きることに慣れています。ですから、多少複雑な状況でも、なんとかやっていけるわけです。そのせいか、子どもが取るに足らない簡単な課題でつまずいたり、あるいは大人だったらやらないような馬鹿げた行動を取っているのを見ると、つい「いったい何をやっているんだ」と目くじらを立ててしまいがちです。特に、大人は世間体を気にするあまり、子どもの不可解な行動や危なっかしい振る舞いで悪目立ちして、社会から目をつけられることを恐れます。そのせいで、「教育ママ」のつもりはなくても、簡単なことではつまずかない、失敗しない子どもを心のどこかで求めてしまうのです。それは、子どものためというよりも、大人が自分自身を安心させたいためだけのものです。つまり大人は、表面的には「子どものため」と言いつつも、その内実に「自分のため」という秘めた欲求を抱えていることがあるのです。これは、その大人自身が不安やストレスを解消できないでいる時に、より強くなる傾向があります。
たとえ大きな理想像を押し付けているつもりはなくても、日々の小さな理想の連なりが、大人と子どもの関係を窮屈なものにしてしまうのです。
子どもが問題を起こしても、怒りを向けるべきではない
大人に怒りを向けられて育った子どもが、「こんなこともできない自分」という負のイメージに縛られて生きるようになることは、すでに説明した通りです。この負の呪縛は、定型発達であろうと発達障がいであろうと、子どもに悪影響を与えてしまいます。というのも、負の自己像に縛られる以上、そこには不満がつきまとい、不満は、前頭前野の活動を抑制させるからです。
発達障がいは、遺伝的な要因も大きく影響しますが、後天的な環境要因も無視できない大きな影響力を持ちます。同じ「発達障がい」という診断のカテゴリーにいても、その子どもがどのような養育環境で育てられたか、そしてどのような環境でこれから育っていくかによって、その障がいの現れ方は軽くなることもあれば、重くなりもするのです。
脳機能を高めることで発達障がいは改善できるというのは、言い方を変えれば、後天的な育成環境を改善する大切さの話でもあります。私たち大人は、発達障がいの子どもたちに「できない自分」というのを不必要に意識させない努力をしながら、「できる自分」を発見していく活動を、もっと積極的に行う必要があるでしょう。