マイクロマネジメントって?
みなさんは、「マイクロマネジメント」という言葉をご存知ですか?この言葉は、元々はビジネス用語で、部下に対して過干渉になってしまう上司のことです。具体的にどのような上司かというと、部下の小さなミスも許さず、細かな報告、連絡、相談を常に求め、業務上の必要を越えて、自分のやり方や好みを部下に押し付けるような人です。上司と部下という力関係に頼り、部下を完全に自分の思い通りにコントロールしておかなければ気が済まないような人のことです。
ひょっとしたら、皆さんの周りでも似たような上司がいて、大変な思いをした方もいるのではないでしょうか。ともすれば、このような上司はパワハラしているとみなされますし、部下に対する良い手本とはなりません。つまり、会社全体にとっても、マイクロマネジメント気質な上司は害悪なのです。
子育てでも起こりがちなマイクロマネジメント
さて、それでは、この「部下の何もかもを自分の思い通りにコントロールしなければ気が済まない上司」という関係性を、そのまま親子に置き換えてみましょう。親が上司で、子どもを部下と考えてみてください。それはつまり、「子どもの何もかもを自分の思い通りにコントロールしなければ気が済まない親」ということになります。どうでしょうか。子育て中の保護者の方々は、自分と子どもの関係に置き換えて想像することができるでしょうか。
恐らく、「私はそんなマイクロマネジメントな子育てなどしていない」と思う方が圧倒的に多数になるでしょう。それもそのはず、実のところ、相手が部下であれ子どもであれ、そういった自分よりも下の存在に過干渉な振る舞いをしてしまう、マイクロマネジメント気質の人は、自分が干渉しすぎであることに気づきにくい傾向があるのです。しかし、特に悪意がなくても、誰もがマイクロマネジメント上司のように子どもに接してしまう可能性はあるのです。
たとえば、子どもが何かの課題に取り組んでいるとします。幼児であればおもちゃの片付けでも、着替えでもいいです。小学生であれば、宿題やちょっとした家事の手伝い、ピアノの練習など、とにかくある程度の集中力が必要な何かに取り組んでいる様子を想像してみてください。子どもの様子を見ていると、あなたが最初に予定していたよりも、課題がスムーズに進みません。子どもはモタモタしたり、気が散って他のことをしていたりします。我慢できずに注意してしまうことはありませんか。あるいは、子どもがコップの中身を床にぶちまけてしまった。そんな時、思わず大声で注意して子どもを責めてはいないでしょうか。次第に、子どものモタついた遅い手つきに耐えられず、先回りして用事を済ませてしまうことはありませんか。子どもに、次はあれをやって、その次はこれをして、と細かい指示を出してはいませんか。この程度のことであれば、きっと多くの保護者が経験しているでしょう。
部下に対してマイクロマネジメントをする上司、あるいは子どもに対して過干渉になる親、双方に共通しているのは、「相手を助けているつもりになっている」という点です。つまり、過干渉は、それをする本人からしてみれば、良かれと思ってやっていることなのです。
善意にもとづく手助けのつもりが、相手にとってはありがた迷惑な干渉にしかなっていない、だからこそ、過干渉をする人は自分の問題点に気づきにくいのです。
過干渉(マイクロマネジメント)の根っこに隠された不安
過干渉は不安を誤魔化すための行為
なぜ、子どもの行動に先回りしてあれこれと指示を出さずにはいられないのでしょうか。
たとえば、夕食時、4歳の娘が自分も食事の配膳を手伝うと言い出したとします。おかずやご飯の入った食器をテーブルまで運びたがる娘に、あなたは煮物を乗せた重たいお皿を渡せるでしょうか。あるいは、小学3年生の息子が、料理を手伝うと言って、自分も野菜を切ってみたいと言い出したらどうでしょうか。あなたは気軽に包丁を渡せるでしょうか。
実は、子どもに過干渉をしてしまう保護者には、共通して強い不安を抱えやすいという傾向があります。
不安という感情には、大きく分けて2つの種類があります。ひとつ目は、たとえば「生き物は必ず死を迎える、自分も生き物である以上、死を逃れることはできない」といったような、個人の努力などではどうすることもできない、スケールの大きな必然の事態に対して抱く不安です。ふたつ目の不安は、もっと身近でスケールの小さな、今日明日、数日後、数年後の未来に対して抱く不安です。「もしもこんな嫌なことが起きたらどうしよう」と具体的に起きて欲しくない未来を想像して不安になる場合もあれば、むしろ逆に「これから先どうなるかわからない」といったように、具体的な想像ができないからこそ不安になる場合もあります。
子どもや部下に対して抱く不安は、ふたつ目の不安に当てはまります。先に挙げた例をとってみるなら、4歳の娘にお皿を渡したとして、もしも彼女がつまずいて転んだら、お皿の中身は床にこぼれるでしょう。そしたら、あなたはペーパータオルやら雑巾やらを取り出して、面倒な床掃除をやる羽目になるでしょう。または、息子に包丁を握らせてみたところ、もしかしたら野菜ではなく自分の指を切ってしまうかもしれません。そしたら、傷の深さによっては大変なことになるかもしれず、料理どころではなくなるでしょう。そして、こんな余計なトラブルに時間を取られているうちに、夕食の時間も、その後に控えている雑事をこなす時間も、どんどん後ろにずれていって、クタクタになってしまうかもしれません。
こんな具合に、自分にとって起きて欲しくない未来のトラブルや不幸を想像してしまうからこそ、その不安を打ち消すため、私たちは過干渉になってしまうのです。つまり、過干渉な振る舞いは、保護者や上司にとっては、先回りして不足の事態を回避しているつもりなのです。
しかし、よくない未来を回避するために先回りして細かく注意、管理することは、保護者自身(上司自身)の不安を少し和らげる効果はあるかもしれませんが、長期的に考えると、とても褒められた態度とは言えないのです。
子どもに与えるべきは、指示ではなく安心感
過干渉は子どもに不安を与える
保護者は、親心や善意から子どもに細かくアドバイスをしているつもりかもしれません。しかし、そんなありがた迷惑なアドバイスは、子どもからすれば自発的な意欲を頭から押さえつける干渉でしかない。これは親子関係で非常に起こりやすいトラブルです。むしろ、細かいミスも見逃さず、行動を逐一管理しようとする態度は、子どものことを信用していないと示しているようなものです。自分を信じてくれていない大人のもとでは、子どもは安心することができません。身近な大人のそばに居ながら安心できないということは、緊張と不安に満ちた日常を生きることを意味します。子どもは、自分が何か間違いを犯すのではないかと恐れ、ビクビクしながら生活しますから、当然、好奇心の赴くままに挑戦するなどできません。
このように、過干渉は好奇心、自発的な意欲、自分で考えて行動する力を少しずつ奪っていくものなのです。これらの力は、本来であれば、子どもが大きくなってから自立した人生を送るために必要な力です。
子どもの頃はよく出来る良い子だったのに、成長してから意外な場面でつまずいて大変な苦労をする、という話は想像以上に多くあります。これは、言い換えるならば、親や教師からの過干渉に耐えた従順な子どもが、いざ大人になってみると、自分で考えて行動する力が弱いために困難を抱える、とも考えられます。
子どもの失敗や無駄な行いも、おおらかに見守って、よほどのことでない限りは許して本人に挑戦させることも時には必要です。任せるとは、いわば相手を信じているからこそ示せる態度であり、子ども本人に任せて見守るとは、子どもへの信頼を示していることに繋がる。ひるがえってみれば、それは子どもの目から見ると「自分を信じてくれている人がいる」つまり味方の存在を示していることに繋がります。
自分を信じている味方がいるという安心感は、子どもの心と身体を孤立から守り、彼らに高い自己評価と行動力を与えるエネルギーになるでしょう。
相手をコントロールしようとするのではなく、まずは自分が変わろうとすること
そうはいっても、発達障がいの子どもの場合、定型発達の子どもたち以上に目が離せないと感じられる場面があるはずです。子どもの行動のひとつひとつ、子どもの将来、その全てが保護者を悩ませるのはある意味当然で、全てを無理やり打ち消すことはできません。
しかし、対処法を変えれば、意外にも道は開けるはずです。それは、子どもに対して過干渉になることではありません。そうではなく、子どもへの不安がどんなものであるか、きちんと自分で見つめて客観視し、分析し、どんな対応が出来るのかを考える、という方法です。
しかし、親と子という二者関係に居るだけでは、なかなか客観的に不安の正体を見極めるなどは難しいと思います。そんな時は、第三者を交えて子育てや子どもの発達について考え、長期的な視野で物事を見る機会を作るとよいでしょう。
キッズデベロッパー では、子どもたちの発達をサポートすることで、将来に向けて社会で生きる力を高める活動をしています。発達障がい児を育てる親を孤立させずその助力となる第三者として、当教室の窓も開いています。