「病」から「社会的少数派(マイノリティ)」へ
AD/HDや「発達障害」という言葉は、少しずつですが社会での認知度を高めています。皆さんは、この言葉からどのようなイメージを持つでしょうか。やはり「疾患」だとか「病」、「ハンデ」といった印象を抱く人が多いのではないでしょうか。
もちろん、医療機関を受診して診断を受け、カウンセリングや薬による治療を受けるわけですから、そのような印象を持つ方がいるのも不思議ではありません。確かに、医療現場では疾患として扱われる方がむしろ正しいとすら言えるでしょう。しかしながら、厳密に「病気」かと問われると、「そうではない」と答える精神医学や神経発達の専門家も、少なからずいるのです。そうした意見を持つ者たちからすると、発達障がいを持つ人は「病人」というよりも「マイノリティ」 なのです。それは、彼らがいわゆる「定型発達」や「普通」と呼ばれている人々とは「異なる」存在であるとの見方です。
「マイノリティ」とは「社会的少数派」という意味です。この反対は「マジョリティ」と呼ばれ「社会的多数派」を意味します。たとえば、日本社会では「日本人」はマジョリティですが、日本に住む「外国人」はマイノリティという立場に置かれています。ここで注意しなければならないのは、あくまでもマイノリティ/マジョリティという立場は、その者が身を置く環境との関係性があって決まるということです。分かりやすい例をあげるならば、日本国内という〈環境〉の中ではマジョリティの立場にいる「日本人」も、仮にアメリカという別の〈環境〉に旅行や移住をしたら、そこでの立場はマイノリティになります。(さらに、この関係性は単純な数の多さ/少なさで決まるものでもないのですが、そのあたりについては話が複雑になりすぎるので、今回は割愛します。)
繰り返しになりますが、ここで最も重要なことは、発達障がいは「その者が身を置く環境との関係性によって発見される存在である」、という点です。つまり、当事者にはたらきかけることも勿論大切ですが、同時に環境改善に力を入れることができれば、発達障がいの改善はより良い取り組みへと進歩できるのです。
「個人」が抱える問題から「関係性」の課題へ
発達障がいは、医療現場では疾患として扱われるべきですが、より広い社会全体としては、彼らを「普通の人々」とは異なるマイノリティとして配慮しながら関わる必要がある、これからの社会はそのように変化していくでしょう。その根拠は、ASD(自閉症スペクトラム障がい)やAD/HDの診断基準に「社会生活・日常生活における支障があるかどうか」を問う項目があるからです。これは「機能障害」と呼ばれているのですが、この問診には、当事者や保護者・関係者が、自分たちの体験や今置かれている状況をどう思っているか、という主観的な判断が色濃く反映されています。一部の専門家は「困り感」と名付けるほど、本人や周囲の人々の体感が頼りになっているのです。
たとえば、毎日のように学校(会社)に遅刻してしまう、忘れ物が多い、勉強についていけない、仕事でミスが多い。こういったハプニングは、客観的に見れば日常生活をつつがなくおくるための「機能」が障害されているように見えるわけです。ところが、同時にそれは、朝8時までに登校(出社)しなければならない、この日までにこの課題を提出しなければならない、この問題を解けなければならない、この仕事をミスなくやり遂げなければならない…などなど。当事者を取り囲む〈環境〉がそのように求めてくるからこそ、彼らは「困らされて」いるとも言い換えられるのです。
発達障がいの人々を、社会環境によって「困らされている」存在と捉え直すことは、少々、突飛な発想に見えるかもしれません。「遅刻をしないなど当然ではないか。忘れ物をしないなど、できて当たり前ではないか。その程度のことができないなんて、だらしがない」そんな風に思う方もいるかもしれません。しかしながら、そう思える人は、まさにその人自身が、遅刻をしないことを当然とする社会に自分自身の生き方を合わせることのできる、マジョリティだと証明していることになります。
さて、ここでマイノリティ/マジョリティという立場は〈環境〉によって変わるものだという点を思い出してみましょう。果たして、〈環境〉に自分を合わせ続け、〈環境〉が求めてくる決まりや基準についていけることは、必ずしも良いことなのでしょうか。
もしも〈環境〉が、登校や出社の時間を個人の自由に任せていたらどうなるでしょうか。あるいは、逆に〈環境〉が「これからは週7日間、毎日20時間労働しなければならない」など、現在よりも厳しい要請をしてきたらどうなるでしょうか。
これほど極端な仮説を立てなくても、たとえば、いわゆる「健常者」にとっては、階段のある〈環境〉は普通であり、それがあっても問題なく暮らせます。しかし、車椅子で生活している人や、足腰の弱った老人にとっては、階段どころか少しの段差でも大きな障壁になりますし、転ぶリスクが高くなります。私たち「健常者」は、こんな状況に置かれた車椅子の人や老人を「だらしがない」と責めることができるでしょうか。そんなことはありません。むしろ、階段は誰かが手を貸すといった第三者のケアがあるべきだと思うはずですし、自ら手を差し伸べるかもしれません。或いは、広いエレベーターやスロープを設置するといった環境側の整備の必要性も感じるでしょう。
このように、「マイノリティ」とは多くの場合、マジョリティの価値観が標準になった環境で、身の置き場がなく不利益を被っている存在を意味するものでもあるのです。
これまでは、発達障がい児/者は、「普通」や「定型発達」と呼ばれる人々の価値基準についていけない人々と考えられ、彼らの生きづらさを、彼ら自身が個人的に抱える「内側」の問題として捉えてきました。しかし、精神医学であれ脳科学であれ、近年ではそうした個人の「内側」にのみ問題の原因を求め、改善や治療をしようとする姿勢は、少しずつですが見直されつつあります。
それというのも、時代の変化と共に様々なことが変わってきたからです。その主な変化のうちのいくつかを挙げてみましょう。まずは変化のポジティブな側面として、多様性を積極的に認めようとする動きが世界的に高まっているという背景があります。他方、これは主に精神医学の領域内での変化ですが、発達障がいの原因を究明するうちに、原因をたったひとつに限定して決めることが、極めて難しいと分かってきたという変化があります。
発達障がいの原因って?
発達障がいの原因究明は、長い間、多くの専門家が取り組んできましたし、今でもその取り組みは続いています。その内容は、遺伝子のエラーといった個人の「内側」に求める研究から、貧困や虐待などといった当事者を取り囲む人間関係や社会環境など「外側」に求める研究まで、幅広い種類のものが存在します。そのように長く続く大きなうねりの中で、信頼を集め関心を寄せられている学説として、今回は主に「エピジェネティクス」と「多因子モデル」の二つをご紹介します。
エピジェネティクス
エピジェネティクスとは、辞書的な説明をすると、「遺伝子がそのDNA塩基配列の変化とは別に、遺伝子発現を制御するシステム」のことやそれについての学問を意味します。しかし、これではとてもわかりづらいので、具体例を挙げてみましょう。
たとえば、妊娠中の女性が無理に体型維持をしようとダイエットに励んだとします。すると、胎児の身体は外の環境では食べ物が不足しているのだと予測し、生命の危機を回避するために、脂肪を積極的に蓄える遺伝子のスイッチが入ってしまうのです。つまり、ダイエットという外からの刺激(環境要因)によって、遺伝子発現の仕方に変化が加えられるのです。あるいは逆に、両親が2人とも糖尿病である場合、子どもも糖尿病を患うリスクは高くなります。つまり、糖尿病に関わる遺伝子発現にスイッチが入りやすい状態で生まれてくるわけです。しかし、そうだからといって絶対に糖尿病になるわけではありません。一方、親が糖尿病でなくても、暴飲暴食の繰り返しによって糖尿病を患う人もいます。
つまり、環境要因と遺伝要因は完全に別種のものとして分けられるのではなく、互いに影響し合いながら制御されていることが分かってきたのです。
多因子モデル
多因子モデルとは、ある疾患が、ひとつの遺伝する素因によって起こるのではなく、複数の遺伝子が関係し、それらがある水準を越えると「病」として扱われるレベルにまで達するとする考え方です。
個人だけではなく関係性に変化を求める社会へ
エピジェネティクスや多因子モデルの研究が進んできたことによって、「これこそが発達障がいの原因である」と言い切れるような、単一の明快な答えなどむしろ出せないことが分かってきました。むしろ、複数の要因が複雑に絡み合い影響し合う状態を私たちは生きています。そして、ある人にとっては特に問題とならない日常生活が、別の人にとっては非常に苦しく大変なものに感じられ、病院を受診して発達障がいと診断を受ける、という展開になるのです。つまり、一卵性双生児でもない限り、ひとりひとり異なる遺伝子によって造られた身体を持つ個人のうち、一部の人々が、社会環境との相互作用によって「疾患」のスイッチがオンになる、そのような流れで発達障がいは発見されるのです。
少なくとも、発達障がいは個人の内側だけに特定の原因を求めることが難しいと分かってきました。今後は「健常者」や「マジョリティ」を基準に作られた社会環境、つまり外側を柔軟に変えていくことが、より積極的に求められるようになるでしょう。
つまり、これからは、発達障がい児(者)との関係性を良好にするために、私たち自身も積極的に変わっていくことが必要になるのです。