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才能は後から身につけ、伸ばすことができる

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 前回の記事で、人間の知能は生まれつき決まっているものではなく、後から訓練で伸ばすことができるとお伝えしました。そして、それは「学力」や「知能」といった、問題を解く場面に限った話ではありません。芸術や文学などの分野にも当てはまるのです。

 絵画や、詩、小説、音楽を創作したり演奏する技術は、私たちが日頃「才能」と呼んでいる特殊な力に支えられた、一部の特別な人々だけが発揮するセンスであり、能力なのだと思い込んでしまいがちです。しかし、そういった「才能」もまた、本人の努力と周囲のサポートによって成り立っていることがほとんどです。

 

 ここで、アメリカの学校のある事例を紹介しましょう。その学校には、他の小学校でトラブルばかり起こして次々と転校を余儀なくされている子どもや、他の生徒にすぐ暴力をふるう子、とにかく勉強にやる気を見せない子、人の持ち物に傷をつける子などといった「問題児」ばかりが通っています。入学当初、彼らは自分の名前も書けないし、本を読むこともできないような状態です。しかし、教師の適切なサポートによって、彼らは年齢の割に難解な詩や小説、戯曲などを楽しむようにまで成長し、自らもまた創作の力を発揮するまでに至ったのです。当然のことながら、特別に優秀な子が居たというわけではありません。クラスの全員が、入学したばかりの頃とはまるで別人のように、大きく成長したのです。

 

 さて、この学校で子どもたちに勉強を教えた教師は、一体どうやって彼らを激変させたのでしょうか。

 それでは今から、「問題児」たちを勉強が大好きな子どもたちに変えていった教師の“教え方のコツ”について見ていきましょう。この“コツ”は、何も教師に特別なものではなく、親にとっても非常に有益なものです。

 

目標は高く、失敗を受け入れ学ぶこと

 

 「問題児」たちに学ぶ意欲を与え、「知ること」の楽しさを教えた教師は、まだ4〜5歳の幼児たち相手にすら、「本を読めるようになること」という難しい目標を与えました。就学年齢ともなれば、子どもたちは高校生が学ぶような単語帳を片手に、難しい古典を読む授業を受けたのです。

 とはいえ、これは決して年齢にそぐわないほど難しいことを頭に詰め込もうとしているわけではありませんでした。むしろ「今は分からなくていい」と「出来ない」ことや「分からない」ことへの恐怖心を取り去り、負荷の強い課題へチャレンジする楽しさを教えていたのです。また、当然「失敗」する機会も増えます。その時に、子どもたちの集中力や真面目に取り組む姿勢など、努力する様を褒めて愛情を注ぐことに多くのエネルギーを費やしました。

 その結果、子どもたちは「失敗」を恥ずかしがらずに、すぐに前向きに気持ちを切り替え、難しい課題も学ぶチャンスなのだと捉えられるよう成長しました。だからこそ、他の学校では通学すら困難なほど、周りとうまく行かず、勉強も手につかなかった彼らは、シェークスピアを読めるようになったり、自ら詩をかくにまで成長出来たのです。

 

 この教師は、「出来ない」子どものために目標を低く設定するという考えを持ってはいませんでした。誰もが最初は「分からないこと」だらけで「不得意」なものに囲まれて恐怖で足がすくんでいることを受け入れ、「いつか必ずできるようになるから」と子どもたちを励まし、大いに失敗させ、その姿を認めたのです。決して、「良い成績」(良い結果)ばかりを求めることはありませんでした。その教師は、子どもたちの「才能」を後から伸ばし、彼らを成長させられると信じていたのです。

 

「人は変われる」と信じ、高い自尊心で挑戦し続けること

 

 日本社会の歴史を振り返ってみると、1960〜70年代に「詰め込み教育」が始まり、その結果、短期間で大量の知識を教え込まれる環境から、学校の勉強についていけない沢山の「落ちこぼれ」が生まれる結果となりました。その反動で、80年代後半からは、従来の教育体制への反省として、「ゆとり教育」が提唱され、学校での学習時間や内容が削られることとなりました。ところが、今度は「ゆとり教育」を受けた世代の学力低下が懸念される事態となり、2010年代からは「脱ゆとり教育」が、新たな方針として打ち出されました。 

 

 さて、果たして「詰め込み教育」と「ゆとり教育」は、どちらの方が良かったのでしょうか。おそらくは、どちらも間違っていた、と言わざるを得ないでしょう。というのも、先のアメリカの学校の教師の教育方針を振り返ってみれば、「詰め込み型」にも「ゆとり型」にも双方に欠けているものが明らかだからです。それは、出来る子どもにしか目を向けず、失敗する子どもをどのようにサポートして力をつけさせるかに無関心だったということです。「落ちこぼれ」たちにどう対応すれば、彼らに学ぶ楽しさを教え、学習意欲を高めさせられるかについて、日本の教育は考えてこなかった。それどころか、全体の目標を下げる「ゆとり」という誤った方向に舵を切ったため、子どもたちから学習の機会を取り上げ、モチベーションを積極的に下げてしまった、とすら言えるのです。

 これは、日本の教育が、点数で示される「結果」にしか目を向けず、「現時点で勉強が出来る子ども」しか大事にしてこなかったために起きている社会問題です。これからは、きちんと「出来ない子」や「問題児」のサポートにも目を向け、「結果」ではなく「努力」を認め「失敗」を受け入れる器を育み、子どもの「今」ではなく「将来」にまで長期的な視野を広げられる教育が必要とされています。

評価ではなく応援を、結果ではなくプロセスを

 

 さて、アメリカの「問題児」を勉強好きに変えてしまう学校、日本の教育の歴史をざっと比べたところで、我々は親として子どもにどのような態度を取るべきか、もう一度考え直してみましょう。どちらの態度を見習うべきかは、明らかだと思います。

 

 「発達障がい児」も、今はまだ「普通の子ども」のように振る舞えず、周りとうまく行かない場面が多いかもしれません。しかし、子どもの現在が全て、出来ない姿が全てだと思って悲観的になる必要はどこにもないのです。

 さあ、相馬ハウスの療育者たちと一緒に、子どもの成長をサポートしていきましょう。

 

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